ルポ生殖ビジネス 世界で「出産」はどう商品化されているか 日比野由利

紹介より

代理母たちを訪ねて

「自分の子」を求めて世界中から不妊者が集まる代理出産先進地 インド、タイ、ベトナムをめぐる旅

子どもがほしいーーこの願いが生殖技術の進展によってかつては考えられなかったレベルまで可能になった。卵子精子の提供にとどまらず、他人の子宮を借りることによって子を持てるようになったのだ。「親」になるのは不妊カップルだけでなく、独身者、同性愛カップルにまでおよぶ。一方、親子をめぐる法律や社会風土は各国それぞれで、代理出産を許容する国には世界から「子づくりツアー」がやってくる。代理母先進地のインド、タイ、ベトナムの現地で代理母、依頼者、仲介者、医師にインタビュー調査をした著者が、代理出産の現状と未来をリアルに描き出す。

他人の子を代わりに産むこと、他人に子を産んでもらうこと……さまざまな境遇の人びとの生の声からは、変貌する社会の家族観や子ども観、さらに貧困問題や南北問題までが浮かびあがってくる。

 各国での状況のルポ。自国で禁止されているから他国に来て行う、そこの国(それに携わる女性)もお金が手に入って喜ぶという理屈は、格差を利用している・女性の搾取と言われても仕方がない。ただしインドでの代理母を行う人が貧困によるものが大きい(代理母の立場は弱い)のに対して、タイではタンブン(徳を積む行為)として行う(代理母の立場比較的強い)、代理出産を原則禁止している国と配偶子提供だけ行う国、依頼者の子として届け出出来る国とそうでない国、商業的利用をしている国と無償なら是とする国など、各国の状況は様々であり、これから更に変化していくだろう。

興味深かったのはベトナムでのルポで、社会風土として、①夫婦に子どもは絶対にいなければいけない(不妊治療の需要が多い)、②養子ではなく夫の子どもでなくてはいけない(儒教的な父系血統主義)、③子どもは母親から栄養を受け取り、卵子提供であっても、産む人間に似る(子宮中心主義) など遺伝的要素をよりも儒教的要素での親子観があること、体外受精よりもIUIに需要があることなどが示されていた。

頭がいい人の「好かれる」技術 本郷陽二

紹介より

「なぜか誰からも好かれる人」に共通する習慣を公開! 人をほめる時、お世辞だと思われないようにするためには、一言「前からおもっていたんだけど」を付け加えればいい、といったマジックワードから、敬語の使いか方、名刺や文房具を話題のきっかけにする方法、メールで仕事を断る際のポイントなど、好感度をあげて、周囲に人を味方にするコツを紹介。さまざまなビジネスシーンで使えて、入社一年目の新入社員からエグゼクティブにも役立つ、人間関係の実用書。

 挨拶をする、話しかけられやすい人になる、感じよく話す、相手の目を見て話す・聞く、相手の話の腰を折らない、敬語できちんと話す、相手と対立する際はストレートに言うのではなく「もし私が間違っていたら~こういう考え方もありますか?」のように柔らかく言う、細かく報告する、メールの返信はすぐにする、相手が喜ぶ会話をする、相手の名前をよぶ…

当たり前のことが当たり前に出来ないことのなんと多いことか。全てを実践するのは難しいにしても、出来ることからやっていくべきである。

宇宙の戦士 ロバート・A・ハインライン

紹介より

恐るべき破壊力を秘めたパワードスーツを着用して、目的の惑星へと宇宙空間から降下、奇襲攻撃をかける機動歩兵。地球連邦軍に志願したジョニーが配属されたのは、この宇宙最強の部隊だった。肉体的にも精神的にも過酷な訓練や異星人との戦いの日々を通して、ジョニーは第一級の兵士へ成長していくが……。ミリタリーSFの原点ここに。映画・アニメ界にも多大な影響をもたらした、巨匠ハインラインヒューゴー賞受賞作。

 幼い頃、この映画化作品であるスターシップトゥルーパーズはお気に入りだったので、度々見ていた。後年映画版は戦争をグロテスクに描く反戦映画であり小説版とは全く違うと聞いていたが、あらすじでは殆ど同じである。

若き青年であるジョニーが軍に志願し、訓練とバグと戦いのなかで成長していくというジュブナイル的は一面は同じと言える。他方、この小説が他業界に与えた影響というのはパワードスーツという概念であるのに、映画版では泥臭い白兵戦(歩兵が生身で戦う)のだから、全く違うと言われるのも頷けた。

そして骨子である度々挟まれた歴史・道徳哲学の授業と市民の義務についての考えが興味深かった。

暴力が問題を解決するという考え方は普遍的だが、作品内で語られる市民道徳という考え方、「政治に参加できるのは個の利益よりも全体の利益を追求するために一度でも自分の身を投げだしたことがあるものだけ」そして現在の国民全てが何の義務も負わずに参政権を獲得していることについての批判は、発表当時のベトナム戦争前のアメリカでは大きな影響があったようだ。軍国主義的もしくはファシスト的な思想に感じられたが、日本では馴染みの薄い「市民」という概念と権利と義務についてのアメリカ人の考え方の一端かと思わされた。

幼年期の終わり アーサー・C・クラーク

紹介より

地球上空に、突如として現れた巨大な宇宙船。オーヴァーロード(最高君主)と呼ばれる異星人は姿を見せることなく人類を統治し、平和で理想的な社会をもたらした。彼らの真の目的とはなにか? 異星人との遭遇によって新たな道を歩み始める人類の姿を哲学的に描いた傑作SF。

言わずとしれたクラークの代表作の一つ。以前読んだ時は、冒頭部分は冷戦下で米ソがすわミサイル発射という一触即発の事態にオーヴァーロードがやってきたように記憶していたが、今回読んだ版ではロシア人宇宙飛行士が宇宙へ飛び立とうとする瞬間に彼らがやってきてそれを阻止するという変更がなされている。

解説では1989年米ソの対立が解消していくなかで時代に合わせた再調整として新訳版に改訂された旨が説明されている。

オーヴァーロードが悪魔的姿をしていること(何故その姿を悪魔的と感じ忌避感をもたらすのかという説明)、それに人間がある種飼育されていること、オーヴァーロードすらもその上の存在であるオーヴァーマインドの従っていることなどがSF的な思索に富んでいる。そしてSFとオカルトが同じ文脈内で語られていることも当時の状況が伺えて面白い。

一つだけ穿った見方をするならば、人類がオーヴァーロードの一部になるということは、人類が進化したのではなく、ただオーヴァーロードに取り込まれただけ、乱暴に言えば餌になったのではないだろうか。

ハコブネ・星が吸う水 村田沙耶香

・ハコブネ

紹介より

セックスが辛く、もしかしたら自分は男なのではと思い、男装するフリーターの里帆。そんな曖昧な里帆を責める椿は、暗闇でも日焼け止めを欠かさず肉体を丁寧にケアする。二人の感覚すら共有できない知佳子は、生身の男性と寝ても人間としての肉体感覚が持てないでいたーー。十九歳の里帆と二人の”アラサー”女性。三人が乗る「ハコブネ」は、セクシャリティーという産みを漂流する。

 女性の苦しみの話。紹介にある年齢については、19歳だからセクシャリティーが曖昧、アラサーだから女性としてのリミットが迫っていて苦しい、という要素として描かれているように思える。意味は理解できるが、

知佳子が終始感じている、昼も夜もなく時間は一定で永遠に続いている・自分は星の欠片である感覚の方が心に迫ってくる気がした。アースとのセックスについては興味深かった。どこかで誰かがしているだろう。

 

・星が吸う水

ハコブネとほぼ同じく女性の苦しみの話。2作品集録で、表題作の「星が吸う水」は、女性としての社会的役割に苦しむ梓と恋愛感情や性欲を持たない志保、セックスが好きな鶴子の3人が温泉に行く話。

もう1作品の「ガマズミ航海」は性行為ではない肉体関係を探す話。

 

今のところ村田沙耶香作品のテーマは、

女性の苦しみ(スクールカーストでの生きづらさや社会から要求される性役割を含む)とセックスについて(大事なものだと感じているがうまくいかない)、そしてそれに内包された家族制度のついての疑問、のようである。

マウス・タダイマノトビラ 村田沙耶香

 

・マウス

紹介なし。

女の子の青春小説。「しろいろの街の、その骨の体温の」よりも嫌われている内容や嫌われ方が論理的で小説的意味づけがされているため、やや紋切り型になっておりリアルさが薄れた印象。読み物としてはすっきりとしたHappyEndになるので読後感がよかった。

 

・タダイマノトビラ

紹介なし。

家族だからといって愛さない・愛されない・愛せないため苦しむ話。理想の家族を思い描いていて、家族欲を満たすために他者をつかう(作中ではカゾクヨクナニー)というのは、夢だと思わなければ幸せなのに…と思うが、家族という夢から覚めて、人間という夢からもさめてしまうというオチの描かれ方には納得がいかない。

消滅世界 村田沙耶香

紹介なし。

人間が人工授精によって出産するようになり、恋愛状態と結婚が完全に分けられた世界設定。夫婦(というより家族)は社会的存在であり、性的存在にするのは間違っているとされている。

後半ではそこから更に進化して、家族(ファミリー)制度はすでに崩壊しており、新たな制度として楽園(エデン)制度を取り入れた社会になっていく。

恋愛感情は寂しさの行き場によって生まれるものであり、子どもを可愛がることで発散できる・赤ちゃん工場を見て生命は続いていく(生命の神秘への感動ではなく、ディストピア的なニュアンス)と考えるところが印象的。また、

「家族」はついさっきまで、私たち二人の大切な宗教だったではないか。酔っているなら、これが夫の本音なのだろうか。私たちは、家族という宗教の敬虔な信者で、だからこそこうして、たいして知りもしない他人同士が同じ部屋の中で安心しきって暮らしているというのに。(p157)

のように何のために家族なのか恋人なのか、そしてそれは何なのかという問いに苦しむ話である。

何となくハーモニー(伊藤計劃)を思い出して似ているような気もしたがそんなこともなかった。